2019-11-12 第200回国会 衆議院 環境委員会 第2号
長島先生は新潟の山古志村の村長の経験がありましたから、新潟中越、その被災をしたときに、まさに避難を指揮をされた。そういった経験をもとに、自民党の部会の中で、瓦れき瓦れきと言うけれども、それを簡単に言ってほしくない、全ては地域の皆さんの大切なものだったということを忘れずに議論しなければいけない、このことを長島先生がおっしゃっていて、私も深く感じ入ったことを今でも忘れません。
長島先生は新潟の山古志村の村長の経験がありましたから、新潟中越、その被災をしたときに、まさに避難を指揮をされた。そういった経験をもとに、自民党の部会の中で、瓦れき瓦れきと言うけれども、それを簡単に言ってほしくない、全ては地域の皆さんの大切なものだったということを忘れずに議論しなければいけない、このことを長島先生がおっしゃっていて、私も深く感じ入ったことを今でも忘れません。
全国で闘牛が盛んな地域といえば、岩手県の久慈市とか新潟の旧山古志村、それから島根県の隠岐の島、また愛媛の宇和島、それから沖縄のうるま市、そして徳之島の天城町、徳之島町、伊仙町三町、こうした市町から集結をされるということでございます。
また、地場産業で、牛それからニシキゴイ、この産地であったわけですが、これは本当に全村避難、山古志村ですけれども、ということになり、この全村避難の決断、大変重かったと思います。 というのは、全村避難するということは、牛に誰が餌をやるのか、ニシキゴイへの空気は誰が入れるのか、親ゴイを失うということは全財産を失うということに等しいということになるわけでございます。
翌日の夜、山古志の御自宅に伺いました。長島さんは静かに横たわっていました。早いよ、長島さん、これからじゃないか、まだまだ一緒にやりたかったよ、本当に無念だったよねと語りかけました。 奥様の久子様は、皆さんに助けられ、皆さんのおかげで活動することができました、ありがとうございましたと、悲しみをこらえ、気丈に弔問の私たちに気遣い、感謝の言葉を述べられました。
そして、二〇〇四年、平成十六年の新潟県中越地震、いわゆる山古志村が全地域避難ということになったわけでございます。そして、すぐ三年後でございましたけれども、新潟県中越沖地震、これは家屋の屋根が崩壊をしておりまして、まさに青いビニールシートを一面に屋根にかぶされておりまして、その後出たいわゆる家庭内ごみ、これが空き地に山積みにされた状況を、これも目の当たりにいたしました。
特に、二〇〇四年の中越地震では、大きな問題があったところで山古志村という村がありました。ここは全村避難になったはずであります。私が現地に行ったときも、当時、一時帰村のときだったんですけれども、危なくなったというので急遽一時帰村をやめて戻ってきたというようなこともございました。震災後十年で人口は半減しております。 中越地震は、恐らく死者の数は七十人弱だったと思います。
○石破国務大臣 山古志村のお話は、当時の村長でありました長島代議士から私もつぶさに承っておるところであります。 また、これまた例が違って恐縮ですが、奥尻島もですよね。奥尻島は、いろいろなハードは整備をしました。港も直しました。いろいろな住宅も建てました。ですけれども、人口は物すごく減っているわけでございます。
その中で、この人が、復興先進事例として山古志村へ視察に行ったけれども、すごく夢と希望をもらったというお話をしてきましたので、ぜひ長島先生にも復興に向けてお力添えをいただきたいと思うので、引き続きよろしくお願いします。
飯舘村の人たちが山古志村を復興のモデルとしたいと言っておりますので、ぜひ、飯舘村にも来ていただいて、支援のほどよろしくお願いしたいと思います。 先ほど言ったように、国がしてあげているのと地元がやってほしいこと、それぞれギャップのないようにこれからも真剣に取り組んでいただきますようよろしくお願い申し上げて、質問を終わります。 ありがとうございました。
○和田政宗君 長島副大臣は山古志村の村長でいらっしゃって、本当に復旧に、復興に御尽力をされたということは私も存じ上げておりますし、私も母方が柏崎で長岡にも多く親戚がいるものですから、本当に山古志の復興の在り方というものがどれだけ丁寧なものであったかということも認識をしております。
山古志村の村長として災害対策の先頭に立たれてきた副大臣でありますので、このメンタルヘルス対策の重要性は十分御承知だというふうに思っております。 復興庁として、メンタルヘルス対策について取り組みはございますか。教えてください。
○高井委員 長島副大臣は、山古志村の村長としてまさにそういった対策の陣頭指揮をとってこられた方ですから、ぜひリーダーシップを発揮していただいて、一日も早くその対策ができるようにお願いしたいと思います。 集中復興期間が終わった後どうするんだという話は聞きたいんですが、ちょっともうきょうは時間がないので、それはまた改めて機会があると思います。
ちょうど北海道南西沖地震から二十年余、それから、山古志の元村長さんがおられますけれども、十月の二十三日でしたか、新潟中越地震からちょうど十年ですよね。
例えば、あの山古志村、すごく私も何回か訪れて魅力的なところなんですが、二〇〇四年に地震ありまして十年になりました。先ほど副大臣が来ておりましたけど。二千二百人の人口が千百人になったと。村に帰る人は、七割戻ると言ったんだけれども半分しか帰ってこなかったと。それから奥尻島なんかは、四千五百人が二十年したら三千人になって、二〇四〇年になったら千三百人ぐらいになっちゃうとかというんですね。
例えば兵庫県では、阪神・淡路大震災の後に補助事業を創設して、児童や生徒への命の教育を行うグループ活動、あるいは民家を改修したみとりの家の運営など、住民主体の地域活動を支援しておりますし、山古志村では、中越地震の後、土砂に埋まった我が家が見える、その屋根が見える高台に地場産品を売る販売店を設置しまして、おかみさんたちを中心として交代制でこの運営がされています。
山古志村等での斜面の崩壊というのは、実はこの台風の落とした雨と複合して起きていると考えざるを得ないわけでございます。 また、首都水没というようなことが内閣府で取り上げられましたけれども、荒川、江戸川、利根川等々の水害がございます。そうした水害と地震の複合というようなことも我々は念頭に置いて考えなければいけない。
長島さんは山古志村で農家の生まれ、私も農業だ。これは、ごく一部の人は二度聞いたことがあるとか言っていたが、二度は言っていないと思うんです。一度はこの委員会でも言ったことがあると思うんです。私は、有機農業とか農薬に対しては厳しい態度をずっととり続けてきたんです。日本有機農業研究会霞が関出張所員と呼ばれていました。有機農業なんて全く市民権を得ていないころからやっていたんです。
そのとき、旧山古志村の全村避難というのを実施しましたが、無論、地方の広域自治体にとっては、地形は既知のことですから、受け入れ先、どこに避難をするのか、行政の間の調整をした上で全村避難をお願いしたということです。
先ほども申し上げましたが、新潟の例でいいますと、旧山古志村から人を救助してもらえれば、運ぶ物資の量が減るわけです。下におりてさえしまえば、ボランティアが、民間がケアはできるということになりますので、この部分を、やはりまず命を守るために公的機関を使うという対応が必要なのではないかなと。 そして、自治体側は、情報収集です。待っていても情報は来ません、通常の行政と違って。
旧山古志村の全村避難、これを決定した最大の理由は、道路だけではなく、通信、電気、ガス、水道、全部ライフラインが切れてしまった。山古志小学校、山古志中学校は機能していました。機能しているところから避難をしてもらうという決断をしたんですけれども、それはなぜかというと、道路、ライフラインが切れたところに支援を続けるのは極めて難しい。自衛隊も今回、東日本大震災では五月ぐらいまで物資を運び続けました。
これは、原発災害ではなくて、山古志村とか奥尻とか、自然災害のあったところは人口が激減、過疎化が加速してしまったというところでありますので、こうした人口流出、帰村がされないという状況に関して、この点について、我々国政の立場でどのようなまた対策をとらなきゃいけないのか、御所見があればお伺いしたいと思います。
山古志村とか奥尻もそうですけれども、ありました。この間、では政治がそれに決定的な対応がとれてきたかといえば、とれていないというのが現状でありますし、平時においても、過疎問題というのはなかなか決定打が打ち出せていないというのが日本の政治の現状でもあります。
十津川のときもそうですし、山古志でもそうでありましたが、日本の場合、これが一番技術的にも応援できるということについては、かなりこれは急所になるものだということで、世界一の技術と経験を持っているということで、向こうからは今要請がないわけでありますけれども、必ずできるという体制、こういうことができますからということについては体制を固めるとともに、技術支援が可能であるということを伝えてくださいということを
実は私も、発災後、今復興の政務官をされております長島さん、山古志村の村長さんですね、発災直後から我が陸前高田市にも来られまして、私も仮設に住むわけでありますので、長島さんは何年仮設に住みましたかと。村の人たちがみんな仮設から出た後だということで、三年と半年だと。
人口流出に関しては、ぜひ、これまで積み上げてきた奥尻や山古志、全てが当てはまるわけではありませんけれども、ここでやれてよかったもの、また、ここで実は効果が上がらなかったもの、反省点も踏まえて、今後の対策に生かしていただきたいということを御指摘させていただきます。 次に移ります。
人口流出の問題は、そういう意味では、ある意味ではこれもまた特殊な地域かもしれませんけれども、震災直後、私の地元の会津の柳津町に一時的に避難をされていた葛尾村の村長さんとお話をしたら、あそこも御承知のとおり牛で村おこしをしていた村でありますから、山古志村を見に行ったというんですね、村長さんは震災の直後に。
実際、あの新潟の地震であったときの山古志村はもう人口が半分ぐらいになっている、そんな状況ですよ。復旧が遅れればそこから人がいなくなっちゃうんです。道路や川や橋を直したとしても、何年で直すか、どのぐらいで直すかということが非常に重要なポイントです。